紅牙のTRPG的何やかや

閃光の獅子と狂気の長

なんだここは。

その通りに入った瞬間、煌一郎はそう思った。

異妖な雰囲気だった。この通り一体がなにかの気配で充満している。

全身に鳥肌が立ち、筋肉が意味もなく緊張する。

見たところは、何の変哲もないスラムの裏通りだ。

ゴミをあさる野良犬も、カラスも、ネズミも、虫の一匹すらいないところを除けばの話だが。

泣きそうになりながら、ここへ来ることを止めようとした弟子の言葉が思い出される。

絶対ヤバいっスよ。やめたほうがいいっスよ。いくら師匠がアレでも、ちょっと…インポートっすよ。

あぁ…もしかして、インポッシブルか?今の今までわからなかったが、カタカナ三文字しかあってないじゃないか…。

そんなどうでもいいことに思いを馳せながら、煌一郎はいやな予感を禁じえなかった。

この雰囲気を件の少年が出しているというのなら、この異様な気配の出所に行けばいいのだろう。

もし違うのなら一安心だし、そうなのなら…想像するだに恐ろしい。

できることなら想像が外れてほしい。祈るような気持ちで煌一郎はプレッシャーの出所へと歩を進める。

そうでないことを願うほどのいやな予感というものは、得てして当たるものだ。

しかし、ここまできた以上引き返すわけにも行かない。命を救ってもらったのだ、礼のひとつも言わなくては。

果たして、その先にいたのは袈裟を着た少年だった。

無造作に地べたに寝転んでいる姿からは、とてもこの異様な気配を発している当人とは思えない。

おう、きたか。悪いな、呼びつけて。

紫色のバンダナを巻いた一風変わった袈裟姿の少年。年の頃16、7。翔輝や"3ed・Eye"の証言どおりだ。

あんたが…その…俺を助けてくれたのか?

不思議なことに"プレアデス"に画像データが残っていなかったので、気を失っていた煌一郎は彼の姿を見ていない。

ああ、そうだ。預かり物を返そうと思ってな。

むくりと起き上がり、言うやいなや、右の手刀を自らの腹部につきたてる。

鮮血が飛び散り、周囲はあの独特の生臭さに包まれる。

驚くべきことに少年は己が心臓をつかみ出そうとでもしているかのように、肘あたりまで腕を刺し入れる。

こふっと口から血を吐き出し、苦悶の表情で腕をゆっくりと引き抜きだす。

血の泡立ついやな音と共に、拳がでてくる。何か棒状のものを握っているようだ。

おおおおおおおおっ!

身の毛もよだつ咆哮と共に一気に引き出すと、地に突きたてる。

そのまま尻餅をついて、ぜいぜいと肩を震わせて荒い息をしている。

地に突き立てられた棒状のもの。それは一振りの刀だった。

拵えのついていない抜き身の刀。信じられないことに、あれだけ血まみれだったにもかかわらず、血が流れ落ちた後の刀身には血曇りひとつついていない。

茎には"獅子王"の銘が入っている。

もってけよ。お前のだ。昔にお前の一族から預かったもんだ。

お前の一族と言われたところで、孤児である煌一郎には関係がない。

しかも、得体の知れない少年が体内から引きずり出した。そんな得体の知れないものを受け取るいわれはない。

だが、あれは俺のものだ。

そんな、妙な確信があった。

煌一郎は、吸い寄せられるように刀に近づく。

茎をつかんだとたん、煌一郎の体から青い霧が噴き出した。

霧は龍の形をとると、刀身に巻きつく。

刹那、閃光が走る。

光が収まったとき、煌一郎の手の刀には、蒼い鞘、龍紋の鍔、霧柄の柄結いの拵えがなされていた。

…へっ…甘やかしどもが。

少年のつぶやきは、煌一郎の耳には届かなかった。

これは…。

驚くほど手になじむ。大きさ、重さ。おそらく刃の反り具合までも煌一郎にあつらえたように合うだろう。いや、もしかしたら、煌一郎の方がこれに合っているのかもしれない。だが、鶏が先か卵が先かなどという議論はどうでもいい。

刃を抜き払うまでもなく、それが実感として伝わってくる。

と、突然。乾いた金属音が、煌一郎を忘我の境地から引き戻す。

少年がいつの間にか立ち上がり、勺を手にしている。

少年はうつむき加減で立っている所為か、前髪で目が隠れている。そのため表情がわかり辛いが、唇の端が少し上がっているようだ。

突如、背後より胴を薙ぎにくる気配。

とっさに鞘を立てて防御するも、鞘と接触するや否やのうちにその気配は消えうせてしまう。

なんだ?何をした?

相手は微動だにしていない。動く気配すら感じなかった。

もう一度、今度は左側面からの斬撃。

後方へ身をかわすことで避けるが、やはりそこに刃はなく、少年は動いていない。

もう一度、勺が金属音を立てる。なんと勺の真ん中から二つの刀に分かれたのだ。お互いに刃が収まっていただけあり、握りが異様に長い。

少年は構えるでもなく、抜き放った刃をだらりと無造作に下げている。

ざわり、と周囲の雰囲気が一変する。

事、ここに至ってやっとこの界隈に満ちている雰囲気の正体がわかった。

これは殺気だ。あまりに濃密で、しかも誰かに向けられたものではなかったので気付かなかったのだ。

手に汗がにじみ出てくる。口が渇く。ちょっとでも気を抜くと殺気にのまれてしまいそうだった。

これならば翔輝が動けなくなったというのも、納得できる。

蛇ににらまれた蛙、というのはこんな気分なのだろうか。

少年がすいっと左の刃を直上に上げる。

少年の腕が煌一郎に向かって振り下ろされ、脚が煌一郎にむけて踏み出される直前。周囲から、前方以外のすべての方位から斬撃の気配が煌一郎を襲った。

乾いた金属音が路地に響く。

剣戟の音ではない。少年の勺が立てる金属音。それも打ち鳴らされたものではない、混沌とした音。

あえて擬音化するならガシャガシャンという耳障りな音だ。

ほぉぅ…。やるもんだ。

異様な光景だった。

少年は、右腕から鮮血をほとばしらせながら、うれしそうに言ってのける。

先ほどの音は、少年の右腕が地面に落ちた時に、手にしていた勺が立てた音だったのだ。

煌一郎はとっさに体を前に出して、左腕の斬撃をさばき、今まさに煌一郎めがけて動き出さんとしていた少年の右腕を切り落としたのだ。

変に思うかもしれないが、煌一郎にはそうするのが精一杯だった。それしか選択肢が残っていなかったのだから。

何だ?お前は?

少年はその問いに答えることなく、無造作に煌一郎に背を向けると右腕を拾い上げる。

しかし、その隙を突いて、煌一郎が少年を攻撃することはできなかった。なぜなら、その間もひっきりなしに斬撃の気配が煌一郎を襲っていたのだ。気配だけと思っていても、正体がわからぬ以上、反応しないわけにはいかない。

そいつがお前ら達人の欠点だな。気配で物事を判断しすぎる。

少年が拾い上げた腕を血飛沫く切り口に合わせると、びくりと痙攣した後くっついた。まるで何事もなかったかのように。

少年は刃を収めると、勺をひと揺らしする。カシャン。と心地よい金属音が路地に響く。

つーてもま、こんな芸当できる奴ぁそうざらにゃぁいねえがな…。

クックックッと笑いながら、少年が煌一郎に向き直る。その顔は人を小ばかにするような表情を浮かべている。

俺の腕を落した褒美にプレゼントをやるよ。…正直、ここまでやれるとは思わなかったからな。

いらんという暇もなく、周囲の雰囲気がさらに変わる。

周囲に放射されていた殺気が動いた。

膝が震えだし、全身に寒気が走る。

ただでさえ浮いていた鳥肌が全身に広がり、筋肉が引きつり、縮み上がる。

心臓が跳ね上がり、動悸が早鐘を打つ。

全身の毛穴から汗が噴き出す半面、口内がかさかさに渇く。

呼吸が崩れ、全身から血と力が抜けていくような気さえする。

全力で目をつむり続けた後に急に開けたときのように、焦点以外のすべてがチカチカと輝いて見え出す。

周囲に放射されていた殺気が収束したのだ。

ただでさえ濃密だった殺気がひとつに収束した、しかも今度は煌一郎へ向けられている。

そんなありえない状況の中では、いかに煌一郎といえど、いや、いかなる達人であろうとも平然としてはいられない。

おそらくは、意識的に殺気を感ずることのできない一般人さえも、即座に恐慌に陥ってしまうだろう。もしかしたら、これだけで絶命してしまうかもしれない。

気絶してしまわないだけましだ。そうできた方がいっそ楽だろうとは思うが。

いいぞ。

少年は歯を見せてニタリと笑う。その表情はいったい何を意味しているのだろうか。

どこからかカタカタと小さい金属音がする。今度ばかりは少年の勺の音ではない。

音は煌一郎の腰からしている。柄に手を置き、いつでも抜刀できる状態でいる煌一郎から。

そう、手が震えているのだ。鍔が煌一郎の震えを表しているのだ。

ボキリ。硬い木片を叩き折ったときのような渇いた音が響く。

グチャリ。肉を叩き潰したときに伝わりくる鈍い音が響く。

煌一郎の目の前で、少年が変形していく。

路地に声が響く、それは恐怖の絶叫だ。

恥も外聞もなく、煌一郎は恐怖をあらわにしている。

充血した眼を、まぶたが裏返ってしまうほどに見開いたまま、全身で絶叫している。

その表情は、普段の精悍さが見る影もないほどにゆがみ引きつっている。

それでも刀を手放さないのは、勇気のなせる業か、それとも、それをよりどころに意識を保っているからなのか。

筆舌に尽くし難き異様さ、名状し難い異形の姿。

ねじくれ曲がり、ありえない場所から生え出た、一本とて同じ腕はない異形の八本の腕。

やはりありえない場所に浮かび上がる八つの鬼相。生えてきた鬼の顔はみな恐ろしい表情を浮かべている。

そして、不自然に膨れ上がった巨躯。

中途半端に人の形状を残しているからこそ、人の恐怖に深く訴えかける。

八本の腕が、それぞれ自らの肉体を引き千切り、それぞれ身のうちから刃を引きずり出すと、浮き出てきた鬼の顔の眼が開く。

それぞれの顔からさまざまな叫びが発される。あるものは鬨の声を上げ、あるものは獣ごとき咆哮を上げ、あるものは断末魔の雄叫びを上げている。

八本の白刃のひらめきが、八つの鬼面が発する声が、そしてなにより名状しがたいその姿が煌一郎を追い詰める。何もしていなくてもだ。