窓から木漏れ日が差し込んでくる。
今日も、いい天気のようだな。
その声は、部屋の上手中央に置かれたベッドに横たわる老人から発せられたものだ。
老人の名はレイグラック=ファーン。
この館の主にして、デン王国にその人ありと謳われた伝説の騎士。御歳68歳。
ある事件を機に体を壊し、ほとんどベッドから動けない身体となりはしたが、彼のなしたことは大きく評価され、国から特別に館と潤沢な生活費を与えられている。
"成り上がり者の息子""放蕩騎士""旗持ち騎士団の魔人""一番槍団長""ブレード・デナ"さまざまな異称、敬称を持つレイグラック老。
彼の波乱に満ちた生涯の手記は、近しき者たちによって編纂され本にされてもいる。
そんな彼に死期が迫っている。これは彼自身も感じていることだった。
周囲の人々の暖かい声や手に支えられていままで生き延びてきたが、もうそろそろ年貢の納め時か。それが正直な実感としてあった。
一人で身を起こすこともひと苦労だし、一人で車椅子に移ることはおろか動かすこともできなくなった。
長年手になじんだ剣ですら、持つのが億劫に感じ、手入れをする手も震えがちだ。
そんなことに思いをはせていると、ノックが聞こえ、レイグラックの返事を待たずにドアが開く。
この部屋に限ってはこのようなことが許される。なにぶん介護が必要な身体だからだ。
大旦那様、お客様がお見えです。
入ってきたのは、年のころ40代後半といった、縦よりも横が広いと言われるほどに恰幅のいいメイドだ。
身体に似合わぬこまやかな心配りと、相応の腕っ節とで、もう5年もレイグラックの介護を勤めている。
うむ。
そう頷くと、メイドはレイグラックが身を起こすのを助け、背にクッションを入れてくれる。
一礼してメイドは去り、入れ替わりに旅装の婦人が入ってくる。34、5歳といった所だろう。
少々幼い感じのする小柄な美女だ。しかし、何より目を引いたのはその髪と瞳だった。
西方の南域に位置するデン王国周辺では非常に珍しい金の髪と緑の瞳。
お久しぶりです、騎士様。
その春日のような柔らかな笑顔に覚えはなかったが、容姿と呼び方に覚えがあった。
・・・導師殿?
レイグラックが導師"殿"と呼ぶ女性は、リリアム=フロストただ一人。
レイグラックの出奔後、シャルク法王国にまつわる動乱に関わり、デンの領地の一角にその名を冠された人物でもある。
記録によれば、レイグラックより2歳年下のはずだ。
しかし、いくら女性は化けるとはいえ、目の前の女性はどう悪く見てもレイグラックより20歳は若い。
はい。リリアム=フロストにございます。ファーン卿、本日は突然の来訪にお応えただき、ありがたく存じます。
慣れないうちはうっとうしく感じるほど、ゆっくりと話す独特の口調。
それはまさにレイグラックの記憶にある導師殿そのものだった。
・・・いや、このような姿で失礼いたします。しかし、よくいらしてくださった。どうぞおかけになってください。
震える手で、そば近くの椅子を指す。来訪者が彼と話をするために、常に置いてある椅子だ。
傍まで来ると、リリアムはレイグラックの手をとり、気を流そうと練気を始める。
レイグラックは首を振ってそれを押し止めると、場を和ませるためからしくもない軽口をたたく。
いやいや、お気になさいますな。歳ですよ。しかし、導師殿はお若いですな。相も変わらずお美しい。
リリアムもふっと表情を緩めて腰掛ける。
ありがとうございます。神のご加護ですわ。
日々の潔斎と精進の賜物、というわけですか。
気を操り、心身常に清浄であるリリアムは、ほぼ常に健康体だ。ゆえに老化が遅いのだろう。
まぁもっとも、奇跡の御業を授かり、若くして聖者と呼ばれた彼女の言だ。神のご加護というのもあながち間違っていないのかもしれない。
事変により不自由な身となったレイグラックにはかなわぬことだ。
いたましそうな顔をするリリアムに、笑いかけるレイグラック。
そんな顔をせんでください。いろいろありましたが、最後に至り悔いは残っていません。
レイグラックの瞳に宿る光、そしてレイグラックの手から感じる暖かで穏やかな気はその言葉に偽りが無いことをリリアムに伝えている。そして、最後という言葉の意味するところも。
レイグラックは少し照れくさそうにこう付け足した。
こうして、貴女にも会えましたしな。
リリアムは微笑んだ。
やわらかく暖かい、春日のような笑みだ。レイグラックの記憶には無いが、不思議と違和感は感じなかった。
そして、二人はお互いの道程などを語り合った。
レイグラックは、リリアムと分かれて後、国に帰る道中であった冒険のこと。国に帰ったときにひと悶着あったこと。妹の策略で妻と出会い、女性を愛し、愛されるということを知ったこと。子をなし、育てることの難しさと、喜びと愛しさを。妻の死や娘たちとのこと。幼き孫達の愛らしさを語った。
リリアムはレイグラックと分かれて後に出会った人々や回った地のこと。東方の樹海の奥で暮らす、恐ろしい(といわれている)鬼族の集落。樹上に暮らす人々。荒野をめぐる遊牧民。深山の練法師の村。よく氾濫する川のほとりで暮らす聖職者たちの村。鉱山の村。見世物や行商を生業とする技芸団。諸国をめぐる武術家・・そんな人々との出会いとちょっとした事件の数々を、そこで得た気付きや教えなどを織り交ぜながら語った。
二人とも話に夢中になっていて、先ほどのメイドが明かりを持ってきたのにも気づかなかったほどだ。
いつの間にか日が落ちている。
あら、すっかり話し込んでしまって・・・お暇いたします。
これからどちらへ?
レイグラックの物言いは、まるでもう会えないかのようだ。
・・・中原をめぐってみようかと思っています。
リリアムはしばし考えたのちにそう答えた。
なるほど、よい道行きのあらんことを。
自分の物言いを否定されなかったことで、レイグラックはこれが最後の別れとなることを悟った。
さようなら、リリアム殿。
レイグラックがリリアムのことを名で呼んだのは、これが最初で最後だった。
・・・さようなら、レイグラック様。
リリアムもまた、その生涯でただ一度となる言葉を口にし、館を辞した。
因縁浅からぬ二人の別れにしては、ずいぶんあっさりしたものだった。
翌日。
レイグラックの館には、久しぶりに娘たちが集まり、孫たちの声で賑わっていた。
レイグラックも車椅子に乗り、陽光がさんさんと降りそそぐ庭ではしゃぎまわる孫達を見ていた。
そんな中、レイグラックにとっては初孫にあたる少年が声高に宣言した。
御爺様の跡をついで、ボクも立派な騎士になる。御爺様も母上も、おば様方も、みんなみーんなボクが守ってあげる。
年の頃は6歳といったところだろう。幼い瞳を夢と冒険、そして憧憬と親愛に輝かせている。
膝にもたれるようにして覗き込んでくる孫をひと撫でして、レイグラックは臥せっているときも決して傍から離すことなく、まったく動けないときでさえ誰にも手入れを任さなかった愛剣を抜き払う。
国を出奔する際に借り受けてより数十年、レイグラックとともに死線をくぐり抜けてきた、彼自身とも言える剣だ。ちなみに帰参したおりに時の王より正式に譲り受けた名剣で、銘を「ブレード・デナ」という。
日に照らし、一瞥して鞘へ戻す。
なぜか、その一連の動作は震えもよどみもなく、美しくさえあった。
さぁ、今日からこの剣はおまえのものだ。国と民に忠義を尽くし、誠を守るのだぞ。
レイグラックは言いながら、少年へと剣を差し出す。
はい、御爺様。
少年は姿勢を正すと精一杯きりっとした顔になって剣を受け取る。
幼いながらも、まっすぐに自分を見返して返事をする孫に向ける満足の笑み。
それが、騎士レイグラックの最後だった。