蒼天に曙の明星が輝くころ、静寂と寒さが世界を包んでいる。
そんな時刻であるにもかかわらず、赤く乾いた大地をとどろかせ、砂塵をあげて進む者があった。
その者の名はバッティング・ホーン。
年若くとも、部族の戦士として信を受ける者だった。
彼は内からわき上がる胸騒ぎに耐えかね、一心不乱に部族の居留地へとひた走っている。
鉱山労働の出稼ぎをおえ、数週間ぶりの帰郷だった。
だが、目覚める者なき朝焼けの中、彼の鼻孔に嗅ぎなれないイヤな臭いが飛び込んできた。
風は居留地の方角から吹いている。
イヤな予感がする。肉の焼ける臭い。革の焼ける臭い。青い葉が焼ける臭い。そして、油の焼ける臭い。
どれも朝食の準備というには妙だ。なにより、こんなに離れていても臭ってくるというのはおかしい。
彼は焦燥感に駆られながらも、世界を呼吸し、今にも張り裂けそうになっている胸のドラムに命を送り込む。もっと早く、もっともっと早く。
この心配が杞憂であることを祈りつつ、ひたすらにただひたすらに、名の示す通りに一直線に突き進んでいった。
そして、まばゆい朝焼けの中で彼が目にしたものは、焼け落ちたテント。無惨にへし折られたトーテムポール。累々と横たわる愛する部族の死体だった。
誰一人として生きてはいなかった。尊敬する長たち。偉大なる呪術師。猛き戦士たち。暖かく穏やかな母たち。厳しくも優しい父たち。幸せの灯火たる幼子たち。今を輝く若者たち。それらすべてが・・・誰一人・・・。
彼は泣いた。空気をふるわせ慟哭した。屍肉をあさりにきた獣が逃げ出すほどに。
悲しみのあまり、このまま死んでしまうかと思われたが、そうはならなかった。
累々と横たわる部族の者たちをそのままにしてはおけない。
彼は仲間たちを一つところに集め、土をかけた。
小さな丘のように盛り上がったその上で、葬送の火をたき、鎮魂の踊りをおどり告別の歌をうたった。彼は呪術士ではなかったので、見よう見まねではあったが。
そして、日が昇るまで泣いた。
目もくらむ朝日の中、ふと彼は一頭の水牛が彼を見ていることに気がついた。
水牛は彼と目が合うと、きびすを返し歩み去った。
彼は手早く支度を整えると、墳墓に一礼し水牛の後について歩き出した。水牛は彼の守護神だ。これは導きに違いない。常識的にいっても、群で動く水牛がたった一頭で、火の臭いのするところへ来るはずがない。
水牛はゆっくりと、しかし休みなく歩いた。
彼は水牛を見失わぬように、疲れと睡眠不足で朽ちそうになる身体を奮い立たせた。
はてなき広野を見、わたる風を感じ、大地の鼓動を聞き、青々とした空を味わい、太陽の光を呼吸した。
そうして、世界と一体になることによってエネルギーを得る・・・偉大なる呪術師の教えだった。
日が中天にかかる頃、彼は川を渡っていた。大河ではないにしろ、小川でもない。流れは強いが、押し流されるほどではない。水牛はそこをわたっている。
そして、その後を追う彼の足下が抜けた。川底に穴があいていたのだ。
とたんに彼の視界は闇に閉ざされ、ごぼごぼという音だけが耳朶を満たす。水流が身体の自由を阻害する。
恐怖が彼を襲い、押し流そうとする。しかし彼は戦士だ。恐怖とのつきあい方はわかっている。戦士の証とともに祖霊に誓った言葉を思い出す。
死がこの身に訪れるまで、私は生きてゆきます。
戦士は死を恐れず、望まず、あきらめない。
視界の端にかすかに光を感じた。気のせいかもしれないが、もはや前後もわからぬ以上、そっちへ進むしかない。
彼は泳ぎが特別達者なわけではないので、かなり分の悪い賭だが、あきらめ、死を待つのは戦士の誇りが許さない。
たとえうまくいかなくとも、精一杯やり抜くのだ。正しい道を精一杯進む者に、大いなる祖霊は加護を下されるのだ。
彼は泳いだ。光を感じたと思える方向へ。こうと決めたら一直線。立ちふさがるものは粉砕してでも押し通る。彼はバッティング・ホーンなのだから。
光が見えた。今度ははっきりと。彼は突き進んだ、濡れた衣服に力を奪われながらも賢明に前へ進んだ。
突然、ふっと身体が軽くなったように感じる。流れが変わったのだ。
大いなる意志に背を押されながら、彼は進んだ。だんだんと大きくなってくる光に向かって、喉仏と襟首がくっついてしまいそうな苦しさにまけずに。
手が空を切り、水面をたたいた。歓喜と共に息を吸い込む。身体に命が溢れ、岸まで泳ぎ着くだけの力を彼に与えてくれる。
足がつくようになると、彼は走った。底はつるつるとしていて滑りやすかったが、そんなことは気にならなかった。
猛り狂う砂牛の蹄の音のように鼓動が全身を暴れ狂っている。喉は、暑き日にせわしなく鳴く虫のように絶え間なくゼイゼイと音を立てている。
やっとの思いで水から這い上がった彼は、その場に大の字にたおれこんだ。もはや息が整うまで、何もできまい。
底は鍾乳洞だった。どこからか光が入ってるのだろう、どこもまばゆく輝いている。
だが、彼が呼吸を整え終わらぬ内に、周囲は見る見る暗くなっていった。おそらくは光が入り込む穴の角度と大きさによって短時間だけ陽光が入り込み、輝くのだろう。
息が整い、鼓動が収まると、彼は大いなる父への感謝をのべ、衣服を絞り、奥へ向かって進みだした。
暗くなったとはいっても、足元おぼつかぬ程度で、進めぬほどではない。壁に手を添えながら、ゆっくりと奥へと進んでゆく。どうやら一本道のようだ。
何かが道を遮っている。どうやら布・・・いや、毛皮のようだ。触れてみるに手慣れた手触りだ。彼の部族が降雨時にまとう河馬の皮だ。
かなり長い距離にわたって等間隔にかかっている。奥に進むにつれて空気が乾いてくる。
湿気よけの設備としてはかなり原始的かつ非合理的だが、これでもかというほどかけられた皮は立派にその役を果たしていた。
なぜならその奥には一機の操兵が駐機していたからだ。
ところどころ錆が浮いているものの、水穴の中にあったとは思えないほど完全な形で残っている。
ジューク・ズヴィエーリ・・・?
頭部にそびえる長大な三つ又の角と張り出したハサミ角。頭部を覆う羽根飾り。胴部の獣面。両腕部の神の輪。
暗さのために細部までは見えないが、それはまさしく部族の守護神にして祟り神でもある、怒りの獣神“けものかぶとむし”のそなえている特徴だった。たった一つ。怒りの面がないことをのぞけば。
私は戦士バッティング・ホーン。
操兵にむかい彼は語りかける。
我が祖、我が父、我が神よ。怒れる虫と獣の王ジューク・ズヴィエーリよ。私をここへ呼んだのは貴方か?
だがもちろん操兵は答えない。
壁に巨大な取手らしきものが見える。あれを回せば出口が開くのだろうが、ホーンの胴ほどもあるその取っ手を独力で動かすのは不可能だった。
残る手段はこの操兵を動かすしかない。しかし、操兵の命ともいうべき仮面がこの操兵にはついていない。
だがそれはすぐに見つかった。操兵の背後の壁のくぼみにちょっとした祭壇がしつらえてあり、そのなかに妙にごわごわする黒い布にくるまれて安置されていた。
足下のおぼつかない暗さの中での作業は難航したが、時間は腐るほどあった。
操兵の背後にあったタンクから血液を心肺機に注ぎ込む。長い時間の中で劣化しているはずだが、背に腹は代えられない。
血に力がこもる様に、勇猛な灰色熊と勇気の詩を歌う。
知恵者の砂蜥蜴と雨雲の詩を歌いながら、泉まで戻って冷却水をくみ、タンクに注ぐ。
準備が整うと、祭壇のようにしつらえてある棚から妙にごわごわする黒い布に包まれた仮面を引き出す。
むろん、祭壇に手をかける前には畏敬の踊りを踊った。
背をよじ登り操手槽に入り込む。仮面をセットし、心肺機を始動させる。
なかなか動かない。
ホーンは自分の鼓動と同期させるように何度も何度も繰りかえす。
心肺機が鼓動を始めたその瞬間。
ザップ
声が聞こえた。
心肺機とともにホーンの鼓動も早さと強さを増していった。
報復を。なぜそれに思い至らなかったのだろう。
ザップ・・・それは接近して一撃を与えること。
そうだ。探しだそう。
我が一族を滅ぼした者たちを、それらを指揮した者を。
たとえ世界の果てを越えても、血と汗にまみれ、苦難に浴し、泥を喰み、毒をすすってでも。
必ずその身に一撃をたたき込んでやる。
心肺機のうなりが最高潮に達する頃、ホーンは叫んでいた。
それは意味のある言葉ではなかったが、生きる目的を見いだした喜びと、憤怒と誓いが込められていた。